川島猛インタビュー 
Takeshi Kawashima interview

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    Takeshi Kawashima interview

これは人なんですよ
人をそのまま描いたのではないですよ
人のカオス(混沌)と言ったほうがよいかな

ここに顔がある
ここはダンスしている
ここは笑っている
人の顔 目や口 腕や脚
笑っているところ 踊っているところ
有機的なものを いろいろ
抽象化して それをモチーフにして

表現方法には グラデーションやぼかし
かすれ マテリアルの工夫など
いろいろな手法があるけれど
これは シンプルに
白と黒 線と面のみで
フォルムとリズムをつくったの
シンプルってことは ピュアなことね

 

川島猛 インタビュー

瀬戸内国際芸術祭2016 年、展示作品「KALEIDSCOPE」紹介文より

 

① 絵描きになろうと決めた小学生

川島猛。
1930(昭和5)年1月、香川県高松市に生まれます。

農家の長男だったので、
あとを継がなくてはと思っていたけれど、
小学校の頃から絵描きになろうと思っていた。

女の子たちが「たけっちゃん、絵を描いて」と、
たくさん集まってきてね。
顔も悪いし背も低いけれど、
絵が上手だとね、
女の子にもてたんですよ。

小学校の廊下に、
賞を取った人や上手な人の絵が展示されていて、
僕の絵はずっと貼ってあった。

ある時、担任の先生が
「絵を描くように、熱心に勉強すれば成績があがりますよ」
と、連絡帳に書いたことから、
父親は絵を描かせてくれなくなった。

隠れて描いた絵を、
ひいじいさんの部屋に隠していたら
年末の大掃除で見つかって
全部燃やされた。
風呂を沸かすのに使われた。

一年ごとに燃やされたからあの頃の絵はないんです。
あの時、先生が「いい絵を描いていますよ」と
書いてくれていたらね。

 

② 太平洋戦争 川島の画風を生んだ親心

1941(昭和16)年 11歳  
太平洋戦争が始まります。

1943(昭和18)年  13歳  
父親の強い希望で新設された
香川県立高松工業学校(現香川県立高松 工芸高等学校)の
航空機科へ入学。

本当は絵を描きたかったけれど、
飛行機の設計士なら兵隊に取られないだろうという
親心だったのでしょう。

でもね、勉強どころではなくて、
運動場を耕して芋を植えたり、
男はみんな戦争に行って男手がないから
農村に、かり出されて、
稲刈り麦刈りを手伝った。

1945(昭和20)年終戦。

1946(昭和21)年、航空機科廃止。川島は機械科へ移ります。

航空機科と機械科で、
デバイダーやコンパスを使っていたから、
今みたいな絵になったのかもしれない。

航空機科の同級生には
「絵を描きに行こう」なんて言う者はいなかった。
それで絵画サークルを作った。

絵を描きたいのを知っていて、
航空機科へ入れた父を、
当時は「このやろう」と思っていたけれど、

飛行機の設計は、
線を一本間違ったら飛行機が飛ばないでしょう。
人の命に関わるんですね。

僕はひらめきや思いつきで絵を描くことができない。
人と違う発想ができるようになったのは
父親のおかげかもしれません。

感謝しています。

卒業後、上京しようと思ったが、
当時の東京はまだまだ混乱していて、
すぐには行けなかった。
それで、その間に、どんなことにも適応できるよう、
あらゆる技術を身につけようと思った。
写真、映画の看板かき、建築、塗装、新聞配達など、
それぞれ2・3ヶ月でやめて、いろんなことをした。

 

③ はじめて描いたヌードデッサン

山田等絵画研究所の宣伝の張り紙を見つけて通い始めた。
ヌードデッサン。
モデルのポーズは時間がきたら変わるから、
ゆっくり見ている時間なんてない。
命がけで戦いのように描いた。

 

東京へ行くために売れる絵も描いた。
一番描いたのは瀬戸内海。
屋島や五剣山、八栗も描いた。
香川の名勝は目をつぶっても描けた。
静物画も。

それを工芸の先輩たちのところへ持っていった。
「お前の絵で倉庫がいっぱいだ」と言われたほど。
本当に先輩たちのお陰。

 

④ 憧れの東京へ

1951(昭和26)年21歳上京。

新聞販売所で住み込みの仕事がみつかって、
半分、家出状態で上京した。

朝早く起きて折り込みを入れて新聞配達もした。
絵を描きたくて家出したぐらいだから
一番燃えていた時代。

紙がないから、広告の裏に描いていた。
モデルになりっこしたり。
風景も描いたけれど、
駅のホームに行って電車待ちしている人や
電車の向かい側に座っている人を描いていた。

人が大好きだからね。

あの頃の絵はどこにいったんだろう。
ためようとか、人に見せようとかじゃなったから。
置いておこうとか考えてなくて
描くことが大事だった。

1953(昭和28)年 23歳 小倉アトリエに下宿。

工芸の生徒が受験や大学生になったとき
利用できるようにと、
工芸の校長だった小倉右一郎先生が
みんなを住まわせてくれた。
ベッドを置いたらいっぱいくらいのところでね。
キッチンは毎日、奪い合い。
僕の部屋は真ん中の
日の当たらないところで真っ暗だった。
そこで絵を描いていた。
色の付かないデッサン。

猪熊弦一郎先生にも、かわいがっていただいた。
「もうくん、もうくん」と呼んでくれてね。
用もないのに何かと仕事を見つけて呼んでくれて、
飯をご馳走してくれた。
僕もわざと、ご飯時分を狙って
「先生、絵をみてください」と、行っていた。
東京に行ったのは
猪熊先生に憧れていたからというのもある。

1954(昭和29)年 24歳
武蔵野美術専門学校油絵科入学。

1955(昭和30)年 25歳
高松三越ギャラリーで個展を開催。

作品はすべて売れた。
みんなが助けてくれたんだ。
絵を描くことを反対していた父も見に来てくれて、
それから応援してくれるようになった。

1956(昭和31)年 26歳
人体専門代々木絵画研究所へ入所。

裸婦の研究所でね、
研究生兼用務員として働かないかと言ってくれて。
月謝を払って、壺やリンゴなど
わけのわからないものを描かされていた
武蔵野美術専門学校を辞めた。

毎日、朝早く行ってストーブつけて。
モデルを集めてくるのも僕の仕事だった。
初めは無給。
みんなが消しゴムに使ったコッペパンを
捨てて帰るのを拾って、それを昼飯にしていた。
21時ぐらいまで研究所で仕事をして、
閉店前のラーメン屋に行って
値引きしてくれたラーメンを食べていた。

半年で栄養失調になった。
田舎に帰って
米のご飯とみそ汁を食べたら、パッと治って、
東京に戻ったら、また栄養失調になって。
パン食べて、ラーメンすすって
裸婦を描いていた。
たくさん描いた。

なぜ裸婦かというと、
やっぱり変化がね、
形も、
いろんな面で勉強になるんですよ。
男だとね、
ごつっとしているから
どんなポーズをとってもね、
定規でひっぱったら終わりじゃない。
女の人だとおっぱいがちょっと落ちてもね、
ものすごい変化がある。
女の人の体はものすごく勉強になる。
勉強になるから描いていた。

1959(昭和34)年29歳
三鷹市井の頭三鷹台アトリエを開きます。

父が土地を買ってくれてね。
当時、読売アンダパンダン展というのがあって、
そこで発表していた。
あとは画廊。
絵を描きたくて描きたくて、
発表したあと作品を置いておくと
描く場所がなくなるから全部捨てていた。
捨て場所情報を画家同士で交換していたぐらい。

 

⑤ そして、ニューヨークへ

1963(昭和38)年33歳
10月渡米。

NY(ニューヨーク)は今と違って情報が全然ない時代。
けれど戦後、美術はアメリカだったからね。
パリを追い越して世界をリードしていた。
昔はパリっていうのはステータスがあるところでね。
僕はみんなパリパリパリ言うからね、
そういうところは行かんぞというのがあった。

NYの真ん中に住んでやろうと思って
セントラルパークウエストのアパート借りて、
次にチェルシーのロフトに移った。
どちらも絵が描ける環境ではなかったので、
すぐに出て、ウォール街の近くのビークマンへ移った。

そこで、めちゃくちゃ、たくさんの絵を描いた。
いろいろNYを観て回る前にね。
観たら影響されるからね。
NYの影響を受ける前に描いた。

 

その頃、描いた絵が「Red and Black」。
2・ 3 m 四方のキャンバスの中を格子でしきり、
一つひとつの枠の中に、
それぞれ異なるエロティックで
有機的なフォルムが描かれています。
日本の紋章を思い起こす絵は、
NYの画壇で一躍注目されることとなりました。

1965(昭和 40))年 35 歳  NY 近代美術館における展覧会
「The New Japanese Painting and Sculpture」に
展示され、その一つが
パーマネントコレクション(永久所蔵品)となります。

1967(昭和42)年 37歳
57丁目のワーデル・ギャラリーで最初の個展を開きました。

 

紋章というつもりはなくてね。
あの絵は、日本にいた頃、
次々と建っていた団地をみてね。
外からみると、みんな同じ窓にみえるけれど、
その中で棲む人々には、
それぞれ違うドラマがあるだろうとね。

 

1971(昭和46)年 41 歳
渡米後、初の回顧展を香川県文化会館、
東京の南天子画廊、
ピナール画廊で開催。
また、母校の高松工芸高等学校で講演会を行います。

1972(昭和47)年 42歳
順子さんと結婚

Red and Black シリーズの多くは赤と黒、
赤と青など2色で描いたものでしたが、
この頃から淡い色やさまざまな色を使うようになります。

 

みんなには
「若い人と結婚したからカラフルになったね」と
冷やかされた。
カラリストなんて呼ばれてね。

 

1979(昭和53)年 49歳
マンハッタンのワールド・トレード・センターで
NY在住の日本人と日系人の現代アーティストたちの展覧会
「WINDOWS ON THE EAST」が開催されました。
発表作品は「Blue and White」。

 

猛  / 青色が好きでね。青色は無限の空の色。

順子 / 「Red and Black の格子を外して外に出ると
空と雲の下に人間のドラマがある」とも
話していたわね。
主人の作品はロビーに展示された。
他の人たちのはロビーの
裏側にある部屋に展示されたの、
大きくて部屋には並べられなかくて
「俺はこれしか出さない」と言い張って。

 

そして1980 年代の Dream Land へ続きます。
枠の中に描かれていた有機体は、
格子からも、キャンバスからも飛び出します。

青色を基調にしつつも、さまざまな色やタッチ、
木の板、切片、石などの素材を用いた作品や、
石の彫刻を制作していきます。

 

順子 / Dream Land は今生の幸せということで
ずっとやってきたもの。
「自分は今を生きるアーティストだから
現実の楽園を描きたい」ということで始まった。

 

⑥ 「2001.9.11」 絵が描けない

2001(平成13)年 71歳
9月11日 「9.11」

 

猛 /   近代文明を象徴するかのような
建物(NYのアイコンと呼ばれた)が
無惨に崩れ落ちた。
ワールド・トレード・センターの
近くに住んでいたことがあって、
あのあたりは散歩コースだった。
近くにおいしいレストランがあって。
まさか、ああなるとは夢にも思っていなかった。

順子 / それから、しばらく描けなくなった。
二人とも何も考えられなくて、
SOHOのアトリエにある階段に、
何時間か何日かわからないけれど、
ジーと座り込んでいたわね。
主人は外に出ることもできなかった。

    翌年の2002年には、
香川での展覧会が決まっていたけれど、
9.11の衝撃で作品ができない。
描こうと思っても描けなかった。

    たまたま家にあった材木で本棚を毎日作っていた。
主人が機械で切って、私が磨いて。
主人は大工のアルバイトを
していたことがあって上手なの。
外は怖くて、空気もひどい。
警官や消防士がズラッと並んでいて
一歩外に出たら自分の家に帰るにも
身分証明書がいる。
そういう状態のときだったから。

    9.11が起こる前は、気分の良い日、
寝る前によくロール紙に筆で描いていたのね。

    また、ロール紙に向かい出したけれど、
絵がまるで変わっていた。
以前は大きな筆で一気に大胆に、
色も、いろいろ使って描いていたのが、
墨だけで、小さなものを
いっぱい描くようになった。
まるで落ちてくる人のように見えた。

 

⑦ KALEIDSCOPE(千変万化 – 万華 -)

順子 / 半年ほど、そういう状態が続いて、
ようやく少しずつ元気が出てきた。
2002年の3月くらいから
展覧会のための絵を描き始めたの。
一気にブワーっと出てきたのね。
全部のフロアを新作にしたいと言い出して。
とにかく作らなきゃいけない。
かつてNYでアシスタントをしてくれていた
水谷くんをわざわざ日本から呼んで、
他にも7、8人来てもらって、
絵の具を溶く人、
線を引く人、
写真を撮る人、
流れ作業みたいにして一気にやったの。
数ヶ月で、40点以上を描きあげた。

    現実の楽園を描きたいということで
描いていたドリームランドが
バーンと崩壊した。
いきなり変わってしまった。
いつ何が起こるのかわからない。
たしかなものはなく
常に変わっていくものなのだ。
今生の楽園が崩壊したことで
「千変万化」という言葉が出てきた。
「千変万化 – 万華ーKALEIDOSCOPE。」

    墨一色で描いたロール紙も展示した。
何も説明は付けないし、しなかったけれど、
ある日、それを見て静かに涙する人がいたの。
「あぁ、伝わるんだ・・・」と思ったわね。
思えばそのロール紙が
「KALEIDOSCOPE」の始まりだった。

    日本での展示が終わり、
NYへ戻った川島が、
アトリエにこもり描き始めた絵が、
今回展示している
「KALEIDOSCOPE Black and White」。

猛 /  毎日まいにち、日記のように描いていた。

順子 / 帰国する前日の夜まで描いていたわね。

 

 

これまで、さまざまな表現方法で、
マテリアルにもこだわり、
大作を制作してきた川島でしたが、
その絵は、四方1mたらずの白い紙に
黒いマーカーで描いたものでした。

表現も素材も複雑なものを、
そぎ落とした黒と白の世界。
そこには、川島が10代の時から見つめ、
追い求めつづけてきた
有機的な(命あるもの)フォルムが、
多様に交差し、無限にひろがっています。

瀬戸内国際芸術祭2016の展示は、
川島が2003年から13年間
NYで描いた370点の「KALEIDOSCOPE」を
異なったマテリアルに実物大でプリントし、
家中に張り巡らせています。
そこに帰国後、川島が新たに描き加え、
仕上げていきました。
中央に展示してある8枚のパネルは
NYで描いた直筆のものです。

 

⑧ 故郷へ

瀬戸内国際芸術祭に参加し、
男木島を再び訪れたことで、
青春時代、島々を歩き、
多くの絵を描いたことを思い出しました。
瀬戸内海の美しさに、改めて心を動かされ
故郷へ戻ることを決意。
2016年2月8日、高松へ戻ってきました。

川島 猛

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